インターリンク ・ 学生映像作品展 2008


参加校(五十音順)及び作品推薦者(敬称略・すべて会員)
阿佐ヶ谷美術専門学校 時空デザイン科 末岡一郎
イメージフォーラム映像研究所 かわなかのぶひろ
大阪芸術大学 芸術学部 大橋勝
九州産業大学 芸術学部 黒岩俊哉
九州大学 芸術工学部 松隈浩之
京都精華大学 芸術学部 相内啓司 伊奈新祐
女子美術大学 芸術学部 為ヶ谷秀一 羽太謙一
成安造形大学 こばやしはくどう 櫻井宏哉
多摩美術大学 映像演劇学科 ほしのあき
東京工芸大学 芸術学部 大津はつね 李容旭
東京造形大学 太田曜
東北芸術工科大学 デザイン工学部 加藤到
名古屋学芸大学 メディア造形学部 伏木啓
名古屋市立大学 芸術工学部 山口良臣
日本工学院専門学校 東英児 佐藤博昭
日本大学 芸術学部 波多野哲朗 奥野邦利
明星大学 情報学部 風間正
早稲田大学 川口芸術学校 瀧健太郎

テーマ:「実写か!アニメーションか!」
報告者
 波多野哲朗(日本大学芸術学部
パネリスト(発言順、敬称略・すべて会員)
伊奈新祐(研究会代表・京都精華大学芸術学部
相内啓司(京都精華大学芸術学部
為ヶ谷秀一(女子美術大学芸術学部
黒岩俊哉(九州産業大学芸術学部
ほしのあきら(多摩美術大学映像演劇学科)
風間正(明星大学情報学部)
羽太謙一(女子美術大学芸術学部
太田曜(東京造形大学
李容旭(東京工芸大学芸術学部
東英児(日本工学院専門学校
佐藤博昭日本大学芸術学部
健太郎早稲田大学川口芸術学校
司会
 奥野邦利(日本大学芸術学部
<基調報告の様子>
 シンポジウムはスクリーニング終了後に同じ会場にて、参加校の学生を中心に、会員、非会員を含めて約70名の参加となった。
 始めに波多野会員より今回のシンポジウムの動機付けとなる基調報告がなされた。ここでは全参加作品を鑑賞した上で、以前に比べてアニメーションが作品の半分以上を占めるという状況を、その量だけではなく、日本アニメーション潜在的なものとした質的充実ぶりには、もっと大きい文化的な動向がその背後にあるのではないか、それが従来からの実写映像とどういう関係にあるか、このような問いを前提としながら報告は始まった。


 テーマとしては「実写か!アニメーションか!」という具合に、少々センセーショナルであるけれども、波多野会員は実写とアニメーションを対立的に捉えるという考え方に賛成ではないとの立場を示しながら、実写映像、あるいはアニメーション映像というコトバそれ自体を検討しなければならないとした。
 一つ目の問題として、カメラを持って行って、現実を写すということを、一般的に実写というふうに呼ぶけれども、この実写という概念が、必ずしもしっかりしたものではなく、特にデジタル社会になった時に、実写とアニメーション、そのふたつの関係が非常に接近した関係を迎えるようになったことが指摘された。
 もう一つの問題としては、デジタル社会に固有の問題ではなく、実写というのは現実そのものであるという考え方それ自体に問題があるのではないかという視点から、リュミエール兄弟の撮った『工場の出口』や『列車の到着』を例にとり、そこには演出とまではいかずとも、何らかの意図が撮影者にはあったであろうことが指摘され、その上で映画理論家のノエル・バーチを参考としながら、映像作品というもののRepresentation「表現」の密度について論は及ぶ。同時に監視カメラとその映像をPresentation「提示」としながら、90年代から我々を取り巻く環境は、情報としての映像Presentation「提示」というものに徹底していることが指摘され、Representation「表現」することの困難さが強調された。
 ここで波多野会員は、情報化社会の中で、批評性を失いつつある実写映像というものに対して、どうやってそれを強化するか、そのひとつに絵を描く(抽象化する)というレベルから、強化しようとする流れが、アニメーションの隆盛へと向かわせているのだと分析する。抽象化とは現実を濃密に集約するものだが、ある意味では特化する、捨てる。どこかを捨てて、どこかを強調するかたちで抽象化というものが始まる。情報が氾濫している社会において、その情報の排除というかたちが表現のなかにみえる。これがひとつには、アニメーションの技術につながるものだろうと述べられ、情報化社会のかなで情報を制限しようとする、雑多な情報を排除するという欲求のなかで、アニメーション映像が有利になってくると論ぜられた。
 最後に、物語というものを導入することによって、希薄な映像世界を強化しようという動きが出ることの問題点が指摘された。19世紀の絵画から20世紀の芸術が登場した時には、自己完結して世界を構築していた芸術が崩れ、マルセル・デュシャンのような人物が登場し、従来の芸術が閉回路であることに対する批評として、シュルレアリズムが別の芸術に光をあてた。一方で、実写映像の非常に困難な弱まりのなかで、再び物語に執着したりする、あるいは映像というもので描く方向に向かってしまうことには抵抗を覚えるとし、なんのために歴史があったのかとも。アヴァンギャルドとは言わずとも、20世紀の歴史は完結しようとする閉回路、自己完結的な回路の中に、ノイズを入れ込む、つまりそれ以外の外部世界を入れ込むことが、20世紀の芸術の動向ではなかっただろうか。20世紀の新しい芸術はそういう閉回路を打ち破るという関係の中で、芸術を出してきたはずではなかったろうか。しかも映像というのはそれに加担するかたちで登場してきたのだと。つまり、現実の引用というかたちで、表現領域のなかに入ってきた。全部を描いていたものの中に、引用という概念を入れたり、収集という概念を入れたりする、まさにあの「泉」という便器は、絵のために生産されたのではなくて、便所のために作られたものを引用して、ギャラリーに持ってきたのだから、自己完結的な芸術ではない。芸術外の世界にあったものを、ギャラリーに持ってくるという、自閉的な回路を壊すノイズとして入り込んできたというところがある。アニメーションの登場自体は、それなりの必然性を認めて、アニメーションがいま隆盛にあるということに対しての問題提起として、閉回路といったものをどうやって打ち破るか、何もかも描いてしまって、あるいは物語の中で完結するという、そういうものの隆盛の中で、アニメーションは、ともすれば、そのような方向に向きかねない状況にある。そこに表現者としてどう立ち向かうか、その問題意識がないと、20世紀の芸術の歴史をご破算にして、また始めるというようなことになってしまうのだと締めくくられた。
<シンポジウムの様子>
 まず、今回の東京会場幹事校を担当し、シンポジウムの進行役を務める日本大学芸術学部の奥野より、波多野会員の基調報告を受けて、参加校の推薦者もしくは指導者より、具体的な問題の共有を念頭に意見を求めた。
 はじめは、映像表現研究会代表である、京都精華大学の伊奈会員より京都会場の報告があり、その中で、時間枠が設けられるとどうしても作品時間の短いアニメーション作品が選ばれる点が指摘された。
 続いて京都精華大学の相内会員からは、制度化され、言語によって整理されていく文化状況に対して、ノイズ、拒絶物を入れていく、そういったものを切り捨てないということに、現代美術の主軸が置かれていたはずだと、そういう問題意識を通して、実写というものをもう一回見直す必要があるとの点で、基調報告への同意が示された。
 女子美術大学の為ヶ谷会員は、あえて技術の進歩のほうから映像をみてみるとし、放送機器展(Inter BEE)などのシンポジウムやフォーラムを進めるなかで、技術は進化し、優れた機材が展示会場には並んでいるけども、映像を作ったり、番組を作ったり、映画を作ったりしている制作者が、技術を使うことだけに、どうもエネルギーを捕られているのではないかとの懸念を持つとのこと。むしろ作品を作るということについてもっと、議論をすべきだろうとのことであった。
 九州産業大学の黒岩会員からは、フェスティバルでの審査などを通じて、似たような作品が非常に多かったとのこと。表現上、特にアニメーションは、万人に分かりやすいように、『トムとジェリー』などのようなアニメの表現のなかで、ジェリーがトムに追いかけられるときの表情とか、役割とか、そういう部分が似通う、そういうことの危険性は感じているとの発言であった。
 多摩美術大学のほしの会員は、フイルム画像の質やウィンドウなど、ビデオとは異質な体験をすることで、もっと学生自身が違う体験をしよう、知らない人と話してみよう、他人の作品を観てみようとか、そういうことの必要性に触れながら、出品者の体験が狭いのではないかとの指摘があった。また、女性の作品のなかには、負のエネルギーのようなものを強く持っているものがあって、それはとっても大事なエネルギーだとの考えも示された。
 明星大学の風間会員は、発想の段階ではすごく面白いけれど、その発想から出発していくと、どうしても形骸化してくる可能性がある点を指摘し、その形骸化してくる可能性の中には、回路にかかっている情報が圧縮化されざるを得ないし、それが表現に結びついているという中で考えると、いま映像表現をやるひとも、プロデュースするひとも、どのようにすれば閉回路を打破できるのか、非常に難しい状態になっているとの言及であった。
 女子美術大学の羽太会員からは、エントリーシートの書き方さえ覚えてしまえば、国際的に作品を出品するチャンスは多くあるので、自分の力を外の世界でチャレンジして欲しいとのアドバイスがあった。
 東京造形大学の太田会員は、写真で写したものというのは、当然平面だけれども、横にして覗いたりすると、それはゆがめられてしまう。そういうことを、だまし絵であるとか、逆に描いたものとか、具体的な発想に結びつけることのポイントが示されていた。
 東京工芸大学の李会員からは、実写とアニメーションの問題を政治経済的な切り口から考えることも、もう少し主体的に考える必要があるのではないかとの提案がされた。
 日本工学院専門学校の東会員は、このような場所で出会ったほかの学校の教員や、同じようなことを学んでいる学生同士で接点を結び、自分たちの弱いところは協力しながら学んでいく、そのようにこういう場所を役立てていくことができるとの発言であった。
 日本大学芸術学部の佐藤会員は、アニメーションか実写かという問題は、ひとつに加工のレベルの問題、加工の度合いの問題ではないかとの認識を示し、リュミエールの時代に、映像に対して加工ができるとすれば、それは、まずはフレーミングでしかなかったし、あるいは工場から出てくる人たちを、大急ぎで50秒くらいで、みんな出してしまう、そういう演出をするぐらいのことだった。それが次第に時間をコントロールするようになり、さまざまな加工が実写に施されてくるようになる。地続きになって今に至るのだろうとのことだった。
 早稲田大学川口芸術学校の瀧会員は、抽象化というコトバの両義性の問題を念頭に、わかりやすく記号化していく抽象化と、20世紀美術における抽象絵画などの芸術運動の方向との、今まさにその中間にあるのだろうとの認識が示された。
 ここでシンポジウム終了予定の時間となり、進行役から波多野会員に、無理なまとめを依頼した。波多野会員は、映画史ひとつ紐解いても、アニメーションはほとんど例外的に、章の終りのほうでわずかに触れられる程度の文化でしかなかったが、そういうものが正面のステージに登場してきた。こうした機会にはアニメか実写かという問題ではなく、実際の作品は出てくるわけで、だからこそひとつの角度として捉えたということは、良い催しだったと全体を結んだ。
 このあとは作者紹介を行い、そのまま会場後方に用意されたスペースにて、推薦者や学生を交えた簡単な懇親会を持った。会場では芸術、産業、コミュニケーション、パフォーマンスなどのキーワードをもとに熱気ある会話が聞かれた。
 留意点として、波多野会員の基調報告は45分間の非常に密度の濃い報告が成され、本来は全文を掲載すべきところを紙面の関係上、問題提起の部分のみ載録したことは断らねばならない。また、シンポジウムのパネリスト諸氏についても同様である。
 連絡体制の不備にも関わらず、今回も18校の参加を得られ、充実したプログラムとなった。同時に、今後の取組みには会員諸氏の更なる協力を仰ぎたい。また、今回も九州でのイベント開催はもちろんのこと、この催しの財産を有効利用していただきたいと考えている。最後に、京都精華大学芸術学部及び日本大学芸術学部の学生ボランティア諸君に感謝。
なお、この報告はシンポジウムの進行を含め、東京会場のコーディネイトを担当した奥野が伊奈新祐研究会代表より委任されて執筆した。
(奥野邦利:日本大学芸術学部